我、京大生ぞ

現役京大生の雑記。メインテーマは大学受験とプログラミングと英語と京大の日常

京大のノーベル賞受賞者まとめ




こんにちは、京大生ブロガーのゲーテ(@goethe_kyodai)です。

京大生の僕が、京大にゆかりのあるノーベル賞受賞者 をまとめました!


目次


湯川秀樹



(Wikipediaより転載)

  • 1949年 ノーベル物理学賞
  • 日本人として初めてのノーベル賞受賞
  • 京都帝国大学(現京都大学)理学部物理学科を卒業
  • 京都大学基礎物理学研究所初代所長


漢学に造詣が深い祖父京大の地理学者の父を持つ学者一家に生まれます。家には膨大な本があり、親も兄弟姉妹も湯川自身も家族全員本を読んで勉強するのが好きだったそうです。


その影響もあってか、湯川自身だけでなく、二人の兄は冶金学者と東洋史学者に、弟は中国文学学者と、兄弟も学者の道に進んでいます。


子供のころから無口な性格で、そのせいで、他の兄弟に比べて能力が低いと親から勝手に思われ、大学進学を諦めさせようとしていたんだとか。ノーベル物理学賞受賞者とは思えないエピソードですね笑。


京都帝国大学(現京大)や大阪帝国大学(現阪大)で大学講師を勤めた経験がありますが、声が小さく聞きにくい上に難解だったので不評だったらしいです。京大の優秀な教授にはよくありがちなことですね。


大阪帝国大学で研究者をやっていたとき、成果を全く出さず、教授に「本来なら朝永君(後のノーベル物理学賞受賞者)に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」アカハラをされました。


1934年に「中間子論構想」を発表し、原子核内で陽子や中性子を結合させる中間子(現在の \pi 中間子)の存在を理論的に予言します。日中戦争のせいで欧米諸国から日本が孤立してたこともあり、海外の研究者からはあまり評価されませんでした。


ですが、物理学者が集まるソルベー会議に湯川は招かれます。会議自体は第二次世界大戦により無くなってしまいますが、湯川はアメリカに行き、そこで出会ったアインシュタインと仲良くなります。


1947年にセシル・パウエルが実際に \pi 中間子を発見したことで、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞しました。これは当時敗戦で暗い雰囲気が漂っていた日本国民に大きな希望を与えました。

なんでノーベル賞を取れたのか?


前述の通り、湯川は「中間子」の功績でノーベル賞を受賞しました。この「中間子」って一体なんなのでしょうか?そしてなぜそれがノーベル賞をもらえるほど重要なんでしょうか?


まず原子核の話からします。


原子核は原子の中に存在するやつです。そしてその原子核は下の図のように、プラスの電荷を持つ陽子と、電荷を持たない中性子から成ります。


陽子はプラスの電荷を持つので、陽子同士はクーロン力により反発します。原子核の大きさは約2.0 × 10^{-15} と非常に小さく、陽子間の距離はそれよりも小さいです。クーロン力は陽子間の距離の逆数に比例するので、陽子間に働くクーロン力はかなり大きなものとなります。


陽子間に馬鹿でかい反発する力が働いているのに、どうやって陽子は原子核に納まっているのでしょうか?強力な力(核力)があり、それが陽子や中性子を結びつけていると考えられてましたが、その正体も分からず、理論的な裏付けもないままでした。


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ですが、その難所を突破したのが、湯川の「中間子」です。「中間子」の存在を仮定し、その中間子を媒介として、陽子や中性子は核力で結びつくことを理論的に証明しました。前述の通り、最初に中間子論を発表した時は「予言」しただけであって、当時その存在は発見されていません。まだ発見されていない粒子を仮定して理論を進めて行くなんてとても大胆な所業です。


この中間子により、現在の「素粒子物理学」は発展していくことになります。


湯川秀樹の業績はこれだけではありません。気になる人は、「場の理論」「因果律の破れ」「強い力」「弱い力」「反核運動」などのキーワードで調べるといいでしょう。


朝永振一郎



(https://matome.naver.jp/m/odai/2145675301434602601より転載)

  • 1965年 ノーベル物理学賞
  • 京都帝国大学(現京都大学)理学部物理学科を卒業
  • イケメン


父は京大の哲学科教授で、生まれた頃から病弱で病気を繰り返し、大学生の時は病気のせいで単位を落としまくっていたそうです。ノーベル物理学賞の授賞式も、酔った時に肋骨を折ったのが原因で出席できなかったらしいです(笑)。


頭脳はずば抜けて明晰で、湯川秀樹や仁科芳雄などの一流の物理学者に「頭がいい」と称されるほどでした。そんな天才であるにも関わらず、性格は超ネガティブで、そのネガティブさが故に、成果が出ない時期に物理学者をやめようと本気で考えたこともあったそうです。


ノーベル物理学賞の湯川秀樹とは、中学・高校・大学で同期でお互いに刺激し合う仲でした。二人は京大のかの天才数学者・岡潔の授業を一緒に受け、刺激を受けたと述べています。


1947年に「繰り込み理論」を発表し、その業績により、リチャード・ファインマンと共にノーベル物理学賞を受賞します。

なんでノーベル賞を取れたのか?


従来の量子電磁力学で計算すると、ある物理量が無限大に発散するが、それは実験の結果と一致せず、重要な問題でした。その問題は長年解けずに立ち往生しますが、解決したのが朝永振一郎の「繰り込み理論」です。


この「繰り込み理論」は、かの相対性理論と並ぶ素粒子物理学の基礎として、素粒子物理学の発展に大きく貢献しました。



朝永振一郎の業績はこれだけではありません。気になる人は、「場の量子論」「超多時間論」「QED理論」「量子電磁力学」「マグネトロンと立体回路」「朝永ーラッティンジャー液体」「量子多体系の集団運動」などのキーワードで調べるといいでしょう。


江崎玲於奈



(https://matome.naver.jp/m/odai/2145390846328477001/2145433963606607003より転載)

  • 1973年 ノーベル物理学賞
  • 旧制第三高校(現京都大学)を卒業
  • 東京帝国大学(現東京大学)理学部物理学科を卒業


全国から秀才が集まる京都府立一中の受験に失敗し、仕方なく同志社中学に通います。東京帝国大学(現東京大学)理学部物理学科を卒業した後は、川西機械製作所(現デンソーテン)東京通信工業株式会社(現ソニー)で研究員として働きます。


半導体内でのトンネル効果を発見したことにより、ノーベル物理学賞を受賞しました。
 

なんでノーベル賞を取れたのか?


江崎は、東京通信工業株式会社(現ソニー)が製造していたゲルマニウムトランジスタの不良品を解析しているときに、「電圧が大きくなるほど流れる電流が減少する」(負性抵抗)という奇妙な現象を偶然発見しました。


それが量子力学における「トンネル効果」によるものであることを実証したことで、ノーベル物理学賞をもらいました。そして、その「トンネル効果」を応用した「エサキダイオード」という電子デバイスを開発し、電子工学において多大な影響を与えます。さらに、「トンネル効果」の実証は、物理学の物性物理という分野の発展に大きく貢献しました。


同じノーベル物理学賞でも、湯川や朝永みたいなバリバリの理論でなくて、工学やものづくりなどの応用寄りの功績ですね。


江崎玲於奈の業績はこれだけではありません。気になる人は、「分子線エピタキシー法」「半導体超格子構造」などのキーワードで調べるといいでしょう。


 

福井謙一



(http://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000207441.htmlより転載)

  • 1981年 ノーベル化学賞
  • 京都帝国大学(現京都大学)工学部工業化学科を卒業

工場経営・外国貿易を営む父の元に生まれます。ファーブル昆虫記を愛読する昆虫少年だったそうです。数学が好きだったが、父の叔父である喜多源逸京大教授の「数学が好きなら化学をやれ」の一言で化学者の道を志し、京大工学部工業化学科に進学します。


その後、24歳で京大の講師になり、さらに、国から任命された陸軍技術大尉も兼任します。寝るときはいつも枕元にメモ帳と鉛筆を置き、散歩するときはいつも手帳を持ち歩くほどのメモ魔でした。


1952年、量子力学の考えを応用した「フロンティア軌道理論」を発表し、その画期的な功績が認められ、後にアジア人初となるノーベル化学賞を受賞します。

なんでノーベル賞を取れたのか?


当時、有機化学反応について、「この組み合わせでこの反応は起こらない」「この組み合わせだとこの反応は起こる」という経験的事実は知られてましたが、その「仕組み」までは解明されていませんでした。


その有機化学反応の仕組みを完全に解明したのが、福井謙一の「フロンティア軌道理論」です。分かっていなかった有機化学の全反応を一つの理論で説明したんだから、ノーベル化学賞をもらうのも当然ですね(笑)。


その「フロンティア軌道理論」について少しだけ説明します。


原子というのは、下の図のように、原子核の周りを電子がたくさんの軌道に沿って回っている、という構造をとっています。


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エネルギー量は軌道によってバラバラです。そこで、フロンティア軌道理論では、電子が入っている軌道のうち、エネルギーが最も高いものHOMO、電子が入っていない軌道のうち、エネルギーが最も低いものLUMOと名付け、全ての有機化学反応はHOMOとLUMOによってのみ決まると主張しています。



利根川進



(Wikipediaより転載)

  • 1987年 ノーベル生理学・医学賞
  • 京都大学理学部化学科を卒業
  • カリフォルニア大学サンディエゴ校博士課程を修了

祖父は電子技術総合研究所(現産業技術総合研究所)の所長を歴任する電気工学の権威父は機械工学のエンジニアという技術者一家に生まれます。


都立日比谷高校からYMCA予備校で一浪したあと、化学が好きという理由で京大理学部化学科に入学します。ところが、大学3年の頃、「化学はすでに完成された学問で、自分には何もすることがない」と思い始め、科学への情熱はどんどん冷めていきました。


大学4年の頃、仕方なく在籍していた化学科の研究室の先輩から、アメリカで「分子生物学」という全く新しい学問の存在の話を聞きました。それは物理学や化学の手法を用いて、生物や生命のしくみを分子レベルで解明しようとする学問でした。


利根川はその「分子生物学」に大きな関心を示し、化学の道から分子生物学の道を志すことにしました。


大学卒業後、京大の大学院理学研究科のウイルス研究所に進学します。そこの渡辺格教授から、「本気で分子生物学を学びたいならアメリカへ行きなさい」とアドバイスを受け、カリフォルニア大学サンディエゴ校に新設された生物学部に留学し、そこで博士号を取りました。


その後、スイスのバーゼル免疫学研究所での抗体の研究成果により、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

なんでノーベル賞を取れたのか?

人体には、さまざまな細菌やウイルスなどの異物が侵入してきます。


これに対し、血液成分のひとつであるリンパ球のB細胞は、その細菌やウイルスなりに対する「抗体」を作ります。どんな異物が侵入しても、B細胞はそれに応じた抗体を作ることができ、その種類は100億を超えます。


この100億種類という膨大な種類の抗体が作られる仕組みは、当時は未解決の難問でした。


その難問を利根川は世界で初めて解決しました。


遺伝子というのは通常一生変化しません。しかし、B細胞は違って、成長するに従って自らの遺伝子を自在に組み替えて、その組み合わせの数だけ抗体を作り出していることを利根川は見抜きました。その方法だと、数万個ほどの遺伝子で100億種類以上の抗体を作れるのです。
 
 

 
 

野依良治



(Wikipediaより転載)

  • 2001年 ノーベル化学賞
  • 灘高校を卒業
  • 京都大学工学部工業化学科を卒業
  • 京都大学大学院工学研究科工業化学専攻博士課程を修了
  • 理化学研究所を歴任

ある化学企業の研究者の父の元に生まれます。子供の頃から頭が良く、成績は常にトップクラスでした。その一方、体が大きかったことからガキ大将として君臨します。


小学校5年生のとき、湯川秀樹がノーベル賞を取ったニュースを目にし大変感銘を受け、科学者を志しました。日本一の進学校・灘中学に入学し、柔道部に入り文武両道を極めます。


ある日、父親にナイロンで作られた新製品の披露発表会に連れられました。そこで、ナイロンが水と石炭と空気から作られることを知り、化学というものに大変感動しました。それが、野依が化学の道を目指すきっかけでした。


化学を志した野依は京大工学部工業化学科に進学します。生徒のほとんとが医学部や東大に進む灘高校では珍しい進路です。


大学1、2年のうちは、麻雀と酒に溺れたり、酔って店のショーウィンドーを壊したりする「クズ京大生」でした。今のテニサーの京大生のようですね。


しかし、大学3年になり本格的な専門の勉強が始まると、心機一転学問に向かうようになります。京大工業化学科は実験でめちゃくちゃ忙しいことで有名ですが、野依は持ち前の情熱で実験を乗り越えました。


その後、33歳で教授になり、「BINAP触媒による不斉合成反応」の研究によりノーベル化学賞を受賞します。

なんでノーベル賞を取れたのか?


有機化合物には鏡像異性体というものを持つものがあり、下の図のように右手ー左手のような関係を持つものを言います。一方を鏡に写すともう一方が現れるのが「鏡像」と言われている所以です。


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右手をどう動かしても左手と一致しないように、鏡像異性体同士はどう動かしても一致しないので別物として扱います。


向きは違うだけで形は同じですが、性質は右手タイプと左手タイプと全然違うということが往々にしてあります。右手タイプは薬になるが、左手タイプは人体に有害、なんて例もたくさんあります。



だから、右手タイプと左手タイプを作り分けることがとても重要なのです。その左右を上手く作り分ける方法を実現したのが、野依のBINAP触媒です。


このBINAP触媒によるいろいろな物質の左右の作り分けができることになったことにより、たくさんの医薬品、農薬、香料、抗生物質を作ることが可能になりました。今でもいろいろな薬品に製造にこのBINAP触媒が広く使われています。

山中伸弥



(Wikipediaより転載)

  • 2012年 ノーベル生理学・医学賞
  • 神戸大学医学部を卒業
  • 大阪市立大学医学研究科を修了
  • 京都大学iPS細胞研究所所長

町工場を営む父の元に生まれます。著書『生命だけは平等だ』を読み医師の生き方に感銘を受け、また、父の勧めもあって医師を目指すことを決意します。


中学高校では柔道、大学ではラグビーというパワー系スポーツに傾倒します。パワー系スポーツをやる中で、10回以上骨折を経験したこともあって、整形外科医になります。


仕事がつまらなかったので整形外科医を退職し、大阪市立大学大学院に入って研究を始めます。その後、カリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所へ博士研究員として留学し、そこであのiPS細胞の研究を始めます。


帰国して、大阪市立大学で再び研究を始めますが、そこは研究大国アメリカに比べて地獄のような環境でした。アメリカでは担当者がやっていたネズミの管理も、自分でやらなければならず、ネズミの管理に忙殺されて肝心の研究に集中できませんでした。


そして、当時はiPS細胞の有用性が重視されていなかったため、周りの理解を得られずに批判される毎日が続きうつ状態になってしまいます。


そのこともあって、研究医より給料が良い整形外科医に戻ろうと考えていた中、「これがダメなら研究者をやめよう」と思い応募した奈良先端科学技術大学院大学の公募に見事採用され、研究者を続けました。


そこではアメリカと同じくらいの快適な研究環境でのびのび研究し、不可能と言われていたiPS細胞の開発に成功し、後にそれが評価されノーベルノーベル生理学・医学賞をもらいます。


なんでノーベル賞を取れたのか?


山中はiPS細胞という夢のような細胞の開発で、ノーベル賞を取りました。


人間の体細胞にごくわずかな因子を導入し、培養することでいろいろな組織や臓器の細胞に分化する能力ほぼ無限に増殖する能力をもつ多能性幹細胞に変化します。つまり、ある体細胞から心臓や肝臓などの臓器や皮膚などの組織を作れるということです。


それは「人工多能性幹細胞(Induced Pluripotent Stem cell)」と呼ばれるもので、それが iPS細胞そのものなのです。


山中らが見出したiPS細胞を作る技術は、簡単で再現性が高いため、簡単に作ることができ、それがゆえに素晴らしい評価を受けているのです。


iPS細胞の応用は範囲は広く、再生医療はもちろん、病気の原因の解明や、新しい薬の開発まで多岐に渡ります。


残念ながら、iPS細胞で全ての病気を治せるというわけではありませんが、もっと研究が進めば、治せる病気の数は飛躍的に増えていくことは確実です。

赤崎勇



(http://moriguchikadoma.goguynet.jp/2014/10/07/akasaki/より転載)

  • 2014年 ノーベル物理学賞
  • 京都大学理学部化学科を卒業
  • 神戸工業(現富士通)で勤務経験あり


鹿児島に生まれ、幼い頃から京都に漠然と憧れを抱いていた赤崎は、当時現在よりも難関だったという京大理学部化学科に入学します。


この年、湯川秀樹のノーベル賞受賞のニュースを目にし、触発され、「今まで誰もやっていないことを自分はやろう」と決意を固めます。それが誰もやっていなかった窒化ガリウムの青色の研究に繋がります。


当時は綺麗で整っていた(現在は廃墟さながら)という吉田寮に住み、京都の古い神社や寺を巡る、優雅な大学生活を過ごします。


京大卒業後、院には行かず、神戸工業(現デンソーテン)に入社します。直属の上司が大学に移って研究をすることになり、彼に誘われる形で、工学部電子工学科の研究室に助手として大学に移ります。


その後、かのパナソニックの設立者・松下幸之助のスカウトされ、松下電器東京研究所の研究室長になります。1981年に要請により名古屋大学に復帰し、初年度で研究室が儲けられるという極めて異例な措置を取られます。


物性制御が困難とあきらめられていた窒化ガリウムの結晶化に成功し、その応用として世界初の青色発光ダイオード(青色LED)を実現させたことで、ノーベル物理学賞エジソン賞をもらいました。

なんでノーベル賞を取れたのか?


LEDは消費電力の少ない照明として急速に普及しました。青色のLEDは、赤や黄に比べて作るのが難しく、不可能とさえ言われていました。


青色LEDの材料の候補はいくつかありましたが、その中で赤崎は窒化ガリウムに目をつけました。


他の材料の方が結晶は作りやすかったのですが、その分軟らかく、一般消費者向けの製品で長時間安定に動作する材料としては使えませんでした。


その点、窒化ガリウムでもし結晶を作ることができれば、極めて丈夫な青色LEDを作ることができます。しかし、窒化ガリウムはダイヤモンド並みに硬く、非常に加工が難しいことで有名でした。その難しさたるや、赤崎以外のほとんどの研究者が加工を諦める程でした。


ある日、あるとき電気炉の調子が悪く、温度が通常より上がりませんでした。これが突破口になります。低温でできた層の上に、通常の1千度で窒化ガリウムを成長させると、とてもきれいで頑丈な結晶ができました。


この偶然の発見により、「硬い基板と硬い窒化ガリウムの間に、軟らかく薄い低温の層(低温バッファー層)を緩衝材として入れる」というアイデアを得て、窒化ガリウムの結晶化に成功し、世界初の青色発光ダイオード(青色LED)の実現に成功します。